「i聞庫「高瀬舟」」
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あなたに“聞かせたい物語”が、ここにあります。
作家・森鴎外の名作「高瀬舟」を、ナレーター・生野文冶が朗読する“文学×音”のハイブリットな世界観を堪能できるアプリです。
森鴎外年譜
1862年1月19日(旧暦) 石見国津和野(現・島根県)で生まれる
1872年 父とともに東京へ。本郷の進文学社(私塾)にドイツ語取得のため入学
1874年 第一大学区医学校予科(現・東京大学医学部)に入学
1881年 卒業後、東京陸軍病院課僚を命じられ陸軍軍医副の任務に就く
1884年 衛生学研究の目的で4年間ドイツ留学。帰国後、軍医学校教官兼陸軍大学校教官、陸軍衛生会議事務官に就く
1889年『読売新聞』に「小説論」、『国民之友』に「於母影」を発表し、本格的に文筆活動開始。妻・登志子と婚約
1890年 『国民之友』に「舞姫」、『柵草紙』に「うたかたの記」を発表。長男・於菟が誕生し、妻・登志子と離婚
1891年 『立憲自由新聞』にルソー「懺悔記」を訳載。医学博士の学位を授与
1892年 『美奈和集』を刊行。慶應義塾大学審美学講師を委嘱される。翌年、陸軍一等軍医正に昇任、軍医学校長兼衛生会議議員に就く
1894年 日清戦争に宇品から出征。翌年東京に凱旋後、軍医学校長に就任
1896年 『めさまし草』を創刊。翌年『公衆医事』『かげ草』を創刊
1900年 『二六新報』に「心頭語」を連載
1902年 妻・志げと再婚し、東京に転勤。『芸文』『万年艸』を創刊
1903年 『東洋画報』に「春朝秋夕」を発表。長女・茉莉誕生。翌年、日露戦争に出征
1906年 帰国後『心の花』に「朝寝」を発表。翌年『うた日記』を刊行。陸軍軍医総監に昇進し、陸軍省医務局長に就任。次男・不律誕生
1908年 『明星』にシュエフェル「父」を訳載。次男・不律死去
1909年 『昴』を創刊し「ヰタ・セクスアリス」などを発表。文学博士の学位を授与。慶応義塾大学文学科顧問に就任。次女・杏奴誕生。翌々年、三男・類誕生
1912年 戯曲『フアウスト』の訳を完結
1916年まで『中央公論』に「興津弥五右衛門の遺書」「山椒大夫」「高瀬舟」などを発表。『新小説』に「堺事件」を発表
1919年 帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任
1922年7月9日 肺結核のために死去。満60歳没
ナレーター・生野文治(しょうのぶんじ)プロフィール
-この声でなければ、「高瀬舟」の世界を表現することは、不可能だった。-
1950年2月9日生まれ。大分県出身。1972年早稲田大学卒業後、RKB毎日放送にアナウンサーとして入社。主にラジオ番組を中心に活躍。1985年にフリーとなり、東京俳優生活協同組合、オフィス・キュー、青二プロダクションを経て、現在はアトゥプロダクションに所属。
主な出演作品
「ためしてガッテン」「報道STATION」「土曜スペシャル」「日曜ビッグバラエティ」や「小林製薬」のCMなど多数出演。
あらすじ
弟殺しの罪で高瀬舟に乗せられ、遠島を申し渡された喜助。彼の表情が、なぜか晴ればれとしていることに気がついた護送役の羽田庄兵衛。そのことを不思議に思い、庄兵衛は喜助の心持ちを尋ねてみることに。聞けば、彼が犯した弟殺しというのは、治る見込みのない重い病に侵されて自殺を図ったが、死にきれずに苦しんでいる弟に手を貸して死なせたということだった…。
システム制作:ダイナテクノロジー株式会社→http://www.dynati.net/inquiry/
作家・森鴎外の名作「高瀬舟」を、ナレーター・生野文冶が朗読する“文学×音”のハイブリットな世界観を堪能できるアプリです。
森鴎外年譜
1862年1月19日(旧暦) 石見国津和野(現・島根県)で生まれる
1872年 父とともに東京へ。本郷の進文学社(私塾)にドイツ語取得のため入学
1874年 第一大学区医学校予科(現・東京大学医学部)に入学
1881年 卒業後、東京陸軍病院課僚を命じられ陸軍軍医副の任務に就く
1884年 衛生学研究の目的で4年間ドイツ留学。帰国後、軍医学校教官兼陸軍大学校教官、陸軍衛生会議事務官に就く
1889年『読売新聞』に「小説論」、『国民之友』に「於母影」を発表し、本格的に文筆活動開始。妻・登志子と婚約
1890年 『国民之友』に「舞姫」、『柵草紙』に「うたかたの記」を発表。長男・於菟が誕生し、妻・登志子と離婚
1891年 『立憲自由新聞』にルソー「懺悔記」を訳載。医学博士の学位を授与
1892年 『美奈和集』を刊行。慶應義塾大学審美学講師を委嘱される。翌年、陸軍一等軍医正に昇任、軍医学校長兼衛生会議議員に就く
1894年 日清戦争に宇品から出征。翌年東京に凱旋後、軍医学校長に就任
1896年 『めさまし草』を創刊。翌年『公衆医事』『かげ草』を創刊
1900年 『二六新報』に「心頭語」を連載
1902年 妻・志げと再婚し、東京に転勤。『芸文』『万年艸』を創刊
1903年 『東洋画報』に「春朝秋夕」を発表。長女・茉莉誕生。翌年、日露戦争に出征
1906年 帰国後『心の花』に「朝寝」を発表。翌年『うた日記』を刊行。陸軍軍医総監に昇進し、陸軍省医務局長に就任。次男・不律誕生
1908年 『明星』にシュエフェル「父」を訳載。次男・不律死去
1909年 『昴』を創刊し「ヰタ・セクスアリス」などを発表。文学博士の学位を授与。慶応義塾大学文学科顧問に就任。次女・杏奴誕生。翌々年、三男・類誕生
1912年 戯曲『フアウスト』の訳を完結
1916年まで『中央公論』に「興津弥五右衛門の遺書」「山椒大夫」「高瀬舟」などを発表。『新小説』に「堺事件」を発表
1919年 帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任
1922年7月9日 肺結核のために死去。満60歳没
ナレーター・生野文治(しょうのぶんじ)プロフィール
-この声でなければ、「高瀬舟」の世界を表現することは、不可能だった。-
1950年2月9日生まれ。大分県出身。1972年早稲田大学卒業後、RKB毎日放送にアナウンサーとして入社。主にラジオ番組を中心に活躍。1985年にフリーとなり、東京俳優生活協同組合、オフィス・キュー、青二プロダクションを経て、現在はアトゥプロダクションに所属。
主な出演作品
「ためしてガッテン」「報道STATION」「土曜スペシャル」「日曜ビッグバラエティ」や「小林製薬」のCMなど多数出演。
あらすじ
弟殺しの罪で高瀬舟に乗せられ、遠島を申し渡された喜助。彼の表情が、なぜか晴ればれとしていることに気がついた護送役の羽田庄兵衛。そのことを不思議に思い、庄兵衛は喜助の心持ちを尋ねてみることに。聞けば、彼が犯した弟殺しというのは、治る見込みのない重い病に侵されて自殺を図ったが、死にきれずに苦しんでいる弟に手を貸して死なせたということだった…。
システム制作:ダイナテクノロジー株式会社→http://www.dynati.net/inquiry/
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